代表氏名 松島 克幸
役 職 松島匠建代表取締役
生年月日 1959年1月1日生まれ
家 族 母、妻、長男(高三)、次男(高一)、長女(中二)、次女(小六)
と私の7人家族 (2013年現在)
趣 味 野球、山登り
良い家をつくることだけが私の使命ではありません。
良い家をつくると同時に、住まう家族が、森や木が、森を育てた先人の人たちが、
そんな家づくりに関わるみんなが喜び幸せになれる家づくり、
それが私の起業の精神であり、自分自身の喜びでもあります。
私の住んでいるところは群馬県みどり市東町沢入(そうり)
渡良瀬川上流にあたる山間(やまあい)の田舎です。
近くの山林を少々所有していたわが家では、山仕事をしていた父に連れられ、
幼い頃は山々を飛び回り、少し大きくなると山仕事の手伝いをしていた私でした。
そんな、野山で汗を流すことは大好きだった私ですが、
人と接することがとても苦手で、内気で人見知りする子どもでした。
森林を育てたり育った木を伐ったりして、
林業の仕事をしていた父の背中を見ながら育った私は、
将来の仕事は父と同じように、森や木を相手にしたいと思っていました。
また私が育った家は、地場の木材を使って建てた昔ながらの木の家で、
ケヤキの大黒柱に真壁の塗り壁、天井の木の杢目や節を眺めながら
眠りに就いた、そんな愛着深い住まいでした。
「山と森」そして「木の温もりと木の香り」
きっとそれが私の原風景として心に刻まれていたのでしょう。
高校を卒業した私は、ためらいもなく林業の職に就きました。
林業に就いてから6~7年、わが家のリフォーム工事が始まり、
父が大工さんに「材木は杉と桧を使ってくれ」と頼んだ。
ところが大工さんが私にそっと
「克幸君、今時そんなこと古くさいよなぁ...
外材の方が世話無く使えるのだけどなぁ...」
と、つぶやいたのでした。
日本の杉・桧に変わって、外国産の木材が既に家づくりの主役となっていた。
大工さんのそんな言葉に私は寂しさを覚え、
徐々に林業への不安と失望を感じるようになってきたのでした。
日本の木材が見放されると同時に、木材価格は
1980年頃をピークに下がり続ける一方となっていました。
林業に夢を見出せなくなってきた20才台後半、
語学勉強でかねてから繋がりのあった桐生の会社から、
海外への業務拡大につき、その任務への誘いがありました。
多少の迷いはあったものの、先の見えない林業に見切りをつけ、
私はその会社で任務を果たすことを決意しました。
東南アジや米国を始め国内外を飛び回り、企画と開発活動を行う、
そんな仕事に新たな夢を抱き始めました。
日本は丁度、空前のバブルに浮かれていた時期!
私が勤めた会社も次々に新たな戦略を打ち出し、
利益の追求に追われるサラリーマンとして、
私もその渦中で活躍し、山からはすっかり遠ざかっていました。
会社では、スピーカーの部品を製造する新しい機械の開発に携わり、
国内外の取引先や仕入れ先への出張業務もありました。
そんな中で迎えたタイへの出張において、
広大なマングローブの森が乱伐されているのを目の当たりにしました。
わたしたちが口にするエビのため、タイの森が消えていました。
その後、タイの日本企業の工場において、
更に大きな衝撃を受けたのでした。
お金や知識面ではタイの人たちより勝っている日本人は、
現地の工場でタイの人たちを機械の部品のように扱っていました。
タイの若い労働者は日本人に怒鳴られる。
だが決して卑屈にならず、純粋な心で真面目に作業を続け、
作業時間が終わると更に目の輝きが増すタイの若者たちでした。
私はその純粋な目の輝きと、屈託のない笑顔のタイの若者たちを見て、
お金や知識的価値を越えた「人としての価値と心の美しさ」を感じました。
そして、経済的な価値に偏った、自分たちの愚かさを痛感したのでした。
日本の企業活動により、タイの森林が消滅するさまに心を痛め、
更にタイの若者から「真に大切なものは何か」を見せられ
私は立て続けに大きなショックを受けました。
「俺は一体何のため、誰のために、今の仕事をしているのか?」
今の仕事は、自分の良心が痛むことの多さに気付き、
「自分の良心に逆らわない“天職”を見つけたい」
そう強く思うようになったのです。
しかし、自分がやるべき仕事(天職)が、直ぐに探し出せたわけでもなく、
悶々としながら、半年ほどサラリーマン生活が続きました。
そんな中で迎えたある日、
山形への出張で宿泊した小さな宿舎(ペンション)にて、
私の大きな転機が訪れました。
宿泊先となった月山の麓の小さな民家風のペンション。
そこは地場の木材をふんだんに使った、木の温もりと白壁の建物でした。
梅雨末期の蒸し暑い時期にも関わらず、室内の空気が気持ち良い!
木と白壁に包まれた空間はとにかく居心地が良く、気分が癒されました。
食事を待つダイニングの椅子に腰掛け、
そしてその瞬間、直感的に閃きが湧き上ってきました。
材料、デザイン、間取りと、住まいのつくり方は様々だが、
そのつくり方一つで、幸せな気持ちになる住まいがあった!
「こんな気持ちの良い住まいに住みたいなぁ!
はっ?!!! そうだ!わが家の木材を活かして気持ちのいい家づくりだ!」
忘れもしない衝撃的な閃き!
これが、私の木の家づくりの道が開けた瞬間でした。
その後直ぐに、会社の残務整理に取り掛かり、
山形の出張から3カ月後にサラリーマンを退職。
そして大工見習の道に入りました。
収入は半分以下! 33才にしてゼロからスタートする建築の道。
今思えば無謀な決意だったと思う。
「大工を覚えるには歳が晩過ぎる!」
「そんな思い付きで大工なんて考えが甘い!」
などと、地域の生え抜きの大工さんから言われ、笑われました。
しかし私の決意は固かったのでした。
単に木の家を建てるだけの大工職人が最終目標ではなかった。
森と家づくりを結び、地場の木を活かし、
山も住む家族も幸せになれる、本物の家づくりを行う事だった。
木を育て、木を活かし、心地良い住まいを設計し、建てる
そんな家づくりを極める工務店を目指していた。
そのために、まずは大工の技術を身に付けるための大工見習だった。
夜間の訓練校にも通い、
大工仕事の他にも外壁張り、屋根葺き、左官塗り、など
建築に関わる作業の梃子(テコ)仕事をして、家づくりを覚えました。
大工見習を始めてから3年後に結婚、
そして翌年には長男が生まれました。
妻には甘い新婚生活を味あわせてやることもできず、苦労を掛けました。
収入は少なく、家族の時間も取れず、
それでも妻は、私の夢を応援する良き理解者でいてくれました。
大工見習いと共に、建築士の勉強も始めていました。
トイレの中で、信号待ちの車の中で、
参考書を開いては建築士の試験勉強をしてました。
そして、建築の道に進んで7年後(平成11年)に二級建築士を取得し、
工務店を起業しました。
とはいっても、名も知れず実績もない田舎の工務店です。
簡単に仕事の依頼があるはずもなかった。
おまけに世の中はバブルがはじけ、
工務店も生き残り競争の時代となっていました。
金銭的にも精神的にも苦しかった創業の時期でした。
起業して3年目、「地域材を活用した健康住宅」の見出しで
建築業者向け(○○ハウジング)のメディアに取り上げられました。
それを見て、今の家づくりに迷いを持ち始めたという、
東京で工務店を経営している社長さんが私を訪ねてきました。
まだまだ駆け出しの私です。
人さまに胸を張ってお見せできる状況ではありませんでしたが、
天然乾燥してある木材の見学や、家づくりの思いを聞いて頂きました。
そして帰り際に社長さんは、
「造り手の都合本意で、環境にも健康にも良くない材料を使い、
お客さんに住まいを提供しているが、最近は良心が痛んでいました。」
「でも今日、松島さんの家づくりを見て気持ちが晴れました。
そしてこの先、私は、人間の良心に従って正しい家づくりを
して行く覚悟ができました。」
と、喜んで帰ったのですが、
“気持ちが晴れた” それはむしろ私の方でした。
思うように家づくりの注文が入らず、将来に不安を抱えていたが、
社長さんの言葉に大きな勇気を頂いたのでした。
「これまでやってきた、俺の家づくりに間違いはなかった!」
頑張る力が湧いてきました!
「木と塗り壁でつくる私の家づくりで、一人でも多くのご家族に喜んでもらいたい」
そう思わずにはいられませんでした。
それ以来、気持ちがとても前向きとなった私ですが、
不思議なことに、家づくりのご用命を下さるお客様が増えてきたのでした。
そして起業4年目にして、遂に新築の依頼が来ました!
お客様は、小さなお子様を持つ親子三人の、子育て世代のご家族です。
限られた予算の中で木材をふんだんに使い、
地場の木を始めとした自然素材を活用した住まいが完成した時、
お客様と一緒になって、私も涙を流して大喜びしました。
先人の人たちが育て、私が伐ってストックしてて置いた木が使われ、
辛い思いをして覚えた家づくりの技術と知識が実を結び、
お客様が大喜びしていただける住まいが完成した。
その大きな感激の涙でした!
今の家は造り手の都合に合わせた結果、
「新しい時はピカピカでも、20年で飽きて建て替えたくなる家」
「安くて早くて簡単な、建てるのではなく買う家」
「合板とビニールで造る、呼吸しない素材で造る家」
これらの基には、
値段が安くでき、工事が簡単にでき、あとでクレームが少ない、
すべて造り手の都合に合わせた家づくりがありました。
値段が安くできれば「お客さまからの注文を取りやすい」
工事が簡単にできれば「手間暇かからず安上がり」
クレームが少ないというのは 「完成した時はピカピカでピッタリ」
目先の利益を優先したこのような家づくりには、
私の良心が痛み 徹底的に本物を追及してきました。
本物を追及すれば、当然値段も高くなります。
しかし、値段が高くなる一番の要因は、
「あれも欲しい!これも欲しい!」と欲張ることからです。
だから、希望やこだわりにまずは、優先順位をつけることです。
簡単に変えることのできない構造材や断熱性能、
そして見た目より本質的な住環境などに
優先順位を高くすることです。
木材も無節のものや、銘木を使えば高価になりますが、
節があってもそれは自然の木であり、欠陥ではなく高価でもありません。
自然素材も適材適所の使い方や、
安くて本物の材料もご用意しています。
そして、一般的な収入の普通の人たちでも
「自然素材を使った本物の家づくり」を強く願うご家族には
夢を叶えるづくりのお手伝いをしなければならい
と、私は考えています。
地産地消で建てる「無垢の木と塗り壁とパッシブデザインの家づくり」
松島匠建株式会社 代表 松島克幸
「家は3回建ててやっと満足する家ができる」と言いますが、
3回も家を建てられる人は滅多にいません。
でも私は、1回で満足できる家づくりをしています。
それを知るには、私ども実際のお住まいをご覧になり、
その心地良さと木の温もりを体感・体見して下さい。
その体感ハウスは群馬県みどり市大間々町下神梅の
国道122号線沿いにありますので、私がご案内いたします。
そこからお客様と私との家づくりがスタートします。
どうぞお気軽に お問い合わせ をして下さい。